職歴無し

おい磯野!ブログやろうぜ!

母子家庭と一人っ子

当時、僕は小学四年生。家は都内にある小さな団地だったろうか。兄弟は無く、俗に言う一人っ子だ。小さいころの記憶は無いが、恐らく甘やかされて育ってきたんだろう。

僕は2歳の頃に父親を亡くし、いわゆる母子家庭である。父親を亡くしたショックなのか、葬式の様子どころか父親の顔も思い出せない。小さい頃の記憶は曖昧になっていくというが、ここまで思い出せないのも不気味だった。

 

そして僕は不登校だった。朝の10時に起き、テレビゲームの電源を付けて、夕暮れ母親が帰ってくるまでやっている。まるでニートそのものだったろう。親に叱られて次の日行こうと思っても、家を出たその足はそのまま本屋に向かっていってしまい、適当に時間を潰してそのまま帰宅、何てことザラであり、帰宅後に学校から連絡を受けた母親にまた怒られて、という繰り返し、懲りない男だった。

特に学校でいじめにあっていたわけではない。むしろ回りは話しかけてくれる同級生ばかりで、教室の居心地は決して悪くなかった。話題が一切合わなかっただとか、担任の先生に嫌われていたとか、上級生に目をつけられていたとか、そういうものも一切無かった。

 

夕暮れまでゲームをやっている、と書いたけれど実際母親は夕方帰ってこない日も多かった。というのも飲みに行っていたのだ。母親はカラオケもよく行っていた。早くに帰って来る日は買い物がある日で、僕は付き添ってお菓子をねだったりしていたのを覚えている。

飲みに行っている日は、決まって夜遅くに電話があった。遅くといっても7時から10時ぐらいである。飲み屋で電話しているのか、とても騒がしい声とともに聞こえてくる母親の声。

「ちょっと迎えに来てー」

最初こそ戸惑ったが、週に4日とか5日とか飲みに出て毎回迎えを呼ばれれば、そりゃ慣れる。駅と店の名前を聞いて(毎回変わることも多かった)、台所にある小銭入れを手にして僕は出かける。今思えばかなり異様だったんじゃないだろうか。

駅に到着してから、通りすがりのサラリーマンなんかにお店の名前を聞いて、時には事情を聞かれて案内してもらったこともあった。それでもわからなかった場合は公衆電話で母親の携帯電話にかけた。出ないことも多く、それはもう不安だった。

なんやかんやでお店に着き、親を探す。大体潰れていた。今にして思うと潰れるフリだったんじゃないだろうか、と思う。ほとんど一人で飲んでいたが、同じ職場のパートっぽい人と飲んでいる事もあった。いつも大変だねー、とか言われていた。

そして半ば引きずるようにして店から出て行くのである。小学生が、いい年した親を連れて。

帰りはそれはもう大変だった。お店から最寄の駅まではまだ歩いてくれるのだが、電車の中で寝てしまい、駅のホームに引きずる。自宅最寄の駅を出てから、それまで寝ていたからなのか、急によろよろしだすのだ。急に歌ったり、お前も歌えと言い出したり、ガードレールに寄りかかったと思ったら寝だすし(車道側、幸い車どおりは少ない所だったが)、急に無言になったと思ったら、座ったまま失禁してしまうこともあった。だがそれはまだ良かった。本当に嫌だったのは、酒に酔った状態で 不登校を叱られることだった。

叱っているうちはまだいいが、大抵手が出る。それも路上で。叱る声は大きく、段々とエスカレートしていく。鞄に入っていたお茶のペットボトルを取り出し、殴りつけながら怒鳴るのがいつものパターンであった。何度言っても聞かない我が子に心の底ではイライラしていたんだろう。叱り付ける言葉も止まることなく、何度も何度も続いた。それでも何とか家まで連れて行き、布団に寝かして日々を送っていた。

 

お酒の入った母親は嫌いだった。当然だ。殴られるし、叱られる。夜の街を歩くのは楽しかったが、迎えに外に出るときは大抵気分は暗かった。

 

そんな生活が半年ぐらい続いた頃だろうか。

いつもの様にお迎えの電話が来て、母親の布団を敷いて、小銭を握り締めて出掛けた。

その日はやけに母親が荒れていた気がする。いつもは自宅の近くに来ないと説教は始まらないのだが、今日は店を出てすぐに始まった。殴りはしなかったが、怒鳴られ続けているのも恥ずかしいので、話を無視して電車に乗って自宅へと向かった。

いつもの様に怒鳴られながら、殴られながら、しかし足を止めることなく向かったのがいけなかったんだろうか。家に帰っても疲れて寝ることも無く、家の中で説教が始まった。

台所で母親は椅子に座り、僕は正座させられていた。ごめんなさい、ごめんなさい、ともう言いなれた言葉を何度も吐く。下を向いて、涙を流しながら。

何度も怒られて、そして殴られているが、決して慣れることは無かった。お酒が入った母親は何を言っても聞かず、ただ一方的に、この親不孝、学校ぐらい行けるだろ、ゲームだって買ってやってるじゃないか、とぶちまけ続ける。

僕はずっと同じ言葉を繰り返す。ごめんなさい、ごめんなさい。ずっと謝っていれば終わると思っていたし、今までもそうだった。早く終わってほしかった。説教の時間は肉体的にも、精神的にもかなり辛かった。

不意に母親が立ち上がり、シンク下の扉を開けた。取り出したのは万能包丁だ。

何が起こっているのかわからなかったが、正座を解いて後ろに下がっていた。もう説教終わりなのかな、とか、あの包丁は確かシール何枚か集めてもらえるキッチンセットの一つだったな、とか能天気に思っていた。足はしびれてうまく動かなかった、手だけで後退していた。

母親が何かを叫んでいる、何を言っているのかは聞き取れなかった。聞こえてはいるのだが、頭に入らないとでも言うのだろうか。

何も考えられなかった。もう無心だった。無我夢中だった。あの鈍い光から必死に逃げていた。

母親の手から万能包丁が投げられる。相当に酔っていたので狙いが定まらなかったのだろうか、僕に命中することなく、すぐ足元にの床に刺さり、刺さりが甘かったんだろう自重でコロッと倒れた。

手で体を引きずりながら、すぐに転がった包丁を取り上げて母親と反対方向の玄関に投げた。

母親は腰が抜けた様な姿勢でブツブツ言っていた。少し思考が麻痺していたのか抵抗は無く、早足で近寄る。足の痺れは気にならなかった。母親の近くに腰を下ろして、「明日からはちゃんといくから今日はもう寝よう?」といつもの口先だけの約束をして母親を寝かせた。寝かせた後に包丁を元に戻しておいた。多分母親は、明日起きたら今日の記憶が飛んでいるんだろう、と思ったからだ。

その日の夜は眠れなかった。母親を寝かしつけている時間に正気が戻り、さっきのことで頭がいっぱいだった。殺されかけたのだ、という恐怖で一夜中ずっと震えていた記憶がある。母親が起きる朝方には寝たフリで乗り切った。

不登校だったので学校に頼るような友達もおらず(といってもこんな問題下手に学校に持ち込むと大事だが)、他に頼れる人も思いつかなかったのだが、(これは記憶が曖昧ではっきりと書けない)母親と仲の良かった過去の同僚の家に電話をかけた。少し前に遊びに行ったときに電話番号を聞いていたのを思い出したのだ。

電話越しの声は驚いていただろう。それでも、「とりあえず家に来なよ、駅前で待ってるから」と言ってくれた。駅名を聞いて、小銭入れだけを握り締めてすぐに飛び出した。

玄関を出るとき、もうここには戻ってこられないと感じた。少なくとも、家族としては。

母親と離れるのも少し寂しかったが、昨日のことを思い出して僕は駅に向かった。

 

僕が次に母親と会うのは、18歳の時になる。